テツさんの誕生日おめでとうございました

きちんと過去形にします。ええ。何でもいいですが「一日」という漢字の表記は好きです。シンプルな一にクールな日。いいなぁ。


そんでもって本題ですがテツさん誕生日おめでとうございました。覚えてましたよちゃんと。でももう昨日は(も)帰ったのが遅くて今日も朝が早かったから寝てしまいました。でも学校に行っても寝てました。無意味。
個人的には三十七という響きよりは三十六という響きの方が好きなので(逃げるが勝ちとか)少しだけ残念ですが、これだけ年を重ねられてこられたというその実績にカンパイしたい所です。私の約二倍の時を生きておられるわけですが(四捨五入したらね)、こんな小娘であってもその倍という大きさが想像もできないくらい、二十年と言う月日を振り返ってみれば道は遠く長いものです。ましてや三十七年。私で言えば今をターニングポイントとしてセブンティーンなお年頃です。若いなぁ。でもイヤに老練している所もある。不思議な人だ。

去年の春も、「テッちゃんの大変さに比べたらこんなもの…」とひぃひぃ働いておりました。しかしあの頃はやはり苦しいだけのものを押しやるだけ、にその語の意義をおいていて、やっていることには何の愛着もわいてはいませんでした。しかし、今現在のこの忙しさは、悲しくなったり嫌になったり、とてつもなく不安になってしまったりすることもあるけれど、自らの求めるビジョンを実際に手に取る為に懸命にやり遂げなければならないものなのだなと言う自覚があります。少し先のことばかり考えてどうしても四六時中彼のことを考えてはいられない日々になってきたのですが、それでも一息つきたくなった時や投げ出したくなったり、なぁなぁに済ましてしまいたくなったりしたときにふと思い出します。

それに、最近はあることが原因で、自分が社会の成員であるのだなと言う自覚を持たなければならないと強く思っております。特に成人したということもあり、なんらかの社会貢献をしないといけないという気持ちが日増しに強くなってきます。現在モラトリアム真っ盛りな時間を過ごしているけれど、もし決定時期が訪れ一社会人として地に足を置くようなことになった時、誰かに必要とされなくても誰かの手助けができるようになりたいと思っています。些細なことでそれを達成したと充足するのを自己ではかってはならないと思うのです、それはきっと自分以外の人にのみある特権で、素直に受け入れるべき言ではあるけれど、それに甘んじてはいけないと。

一日はとても大切なのです。簡単に過ぎ去らせるにはあまりにも惜しいほどに!