今日も一曲

っていうか力尽きた…「蜃気楼」です。前四曲に比べてありえないほど長くなった。いや、他と差をつけたつもりじゃないんです。他は殆ど言葉をはしょったんですよ、あんまりいかにもなレビュー体勢を整えると、続けるのが辛くなるから、やる気がなくならない程度に短めに…短めに…って。でも案外テッちゃん熱が強かったみたいです。何も考えずに書いてたらめっさ長くなった…さっきまで学校にいた人間なのに…(笑)次はSCARECROWですね、どっちも力はいっちゃう歌です。今日も少しまとめとこう。ではでは以下。







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※アルバム作成時まだファンでなかったこともあり、どのような姿勢で各曲をお作りになったのかだとかそういった情報ナシで書いております。ご了承ください。
また、文中で現紹介曲の引用はこの色で、このアルバム中の歌詞だけれど紹介曲ではない曲からの引用はこの色で示しています。その他はただの強調です。引用について正規表現はしていませんが、特に記述のない場合全てSuite November/TETSU69内のどれかです。著作権上問題のないように気を使ってはいますが、至らない所はどんどんご指摘御願いします。(歌詞間違うことは…ないと思いますが、もしもの場合は御願いします)

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Suite November

Suite November




5. 蜃気楼

PVについては書きません。書きたかったけど書きません。あれについて書いていると私の心臓と思考がどれだけ耐えられるかわかりゃしませんもの。何とも言えず見る度に何かが満ちて溢れる気持ちになります。何かってそりゃこう妄想とかそういうあんまりキレイなものじゃないんですが(言葉をやわらかくしました…)。とりあえずPVは、心の中の大切な場所で何度も上映して一人でにんまりするにとどめておきます。なんでそんな宣言するかって行ったら封印する為です。・・・思い出しそうになったので暫く休止…!

はい、戻ってきました(むなしくないか?こういうの…)。歌声については、最後の「消えてく」の「う〜〜〜〜」と伸ばしている所がすごく好き。あと「行きはよいよい」「よいよい」とか。「信じてた物全て」の低くなる所とか。「楽なだけ」「だけ」とか、「苦い思いは」「苦い」とか。「答は一つじゃない」「一つ」とか、「行く当てはない」「行く」とか。 ………マニアックだなオイ!(笑) あ、あとサビが、すごく色っぽく感じてしまうのは私だけなんでしょうか…。パンクのプロミスとか、ああいう声とはまた違った色気を感じてしまって…同意者求む(笑)。
さて、歌詞。どの歌詞を一番に上げていいか判らないくらい素敵な歌。全てに「真理!」と思ってしまう、全てに「テッちゃん!」と思ってしまうような。アルバムの中で、最も端的に哲学している歌だと思います。その中で、あえて一番初めに取りあげるならば…これしかない。

「疑うことより 信じる方が楽なだけ」

出だしの「何が嘘で何が本当なのか わからない」(←コレが出だしですよ!/笑)と対?になっている(…と、私が勝手に思っている)部分なのですが、まさにそう。疑うことが終わるって言うのは、つまり信じるということだから、疑うことには終わりがない。盲目的にでも信じる方が絶対楽(ここでも「ラク」が…)。完全に信じるわけじゃないって言っても、「コレおかしくない?」って言うのを、思考に負担をかけないでそのままにしておくっていうのは、「ま、いいか。」「そういうことにしておこう。」ってことだと思うのですよ。そういうことにしておく、ということはその状態を前提に物事を進めていくわけで、前提にするって言うのはつまり信じているからできることで。そりゃまぁ全てに疑いを持ち続けていれば生きていくことができないですが(逸脱したパラノイアだし)、全てに唯々諾々と従って生きていくのもやはり問題。「考えるな、感じろ」な人の割りに…………いや、でも違うなきっと。感性で疑いを持つ…考えているというより。この人面白い所は、二番の「甘い罠に惑わされて 苦い思いはしたくない」で思ったのだけれど、色々なことを疑う割に、感覚だけは疑わないってところなんですよ。「フツーそんなもんじゃん?」ってこともないですよ、だってコレだけ色々疑ってて、その中に存在する自分にその懐疑が帰着しない人はあんまりいないと思います。それを自己中心性であると切って捨てるのは容易ですが、実際感覚がフラフラ落ち着かないっていうのだって自我同一性の弱さの現われであるし、どっちに転んでも極端ではあるけれど、中庸精神でいったところで削いでも削いでも左右前後上下内外なくなることなんてないじゃないですか。まぁ深く言及はしませんが、私はこういう人を見ると仰いでしまいたくなるので、素直に面白いなぁと思います。
で。「行くあてはない ただここには居たくないよ」。これはすごくわかりやすい。何だか本当に、不器用で幼いのだろうという感じが伺える。でもストイックなまでに拙い表現には逆に感動しました。この言い方は失礼なのかもしれないけれど、なんていうのか…「出来る人は少ないよ」ということです。裸の王様みたいな感じで。テツさんの歌詞は修辞の少ないところが一つ特徴としてありますが(SCAREROWではちょっと違うけど)、それだけにまるっと素直に言葉が吐き出されている。でも、それを、単純なはずのその内容を考えていって何で深みにはまるんだろう、不思議なことが出てくるんだろうって考えてみれば、修辞の少なさ、目立たなさ自体が最終的に一つのレトリックに転じているからなんだろうと思えるのです。本当に思うことを口にすることは、例えはばかりない言葉であっても出来ないもの。「出しているつもり」が、逆に「単純な言語化」という先入観を持ってしまって、その真意を読み取ることが出来ない。「言葉の拙さ、不足」という能力的な問題に限って言ってもいいですが、私は詩、詞は感性で見るので全然構いません。寧ろ大歓迎、だってとても面白い。

さてさてズレてしまいましたので戻りましょう。「Too late! Too late! Too late!」。トゥレトゥレトゥ〜レ(こんなリズムじゃないですよ/笑)、意訳すれば「遅すぎ!」ですね。このへん、誰に遅すぎるって言ってるんだろう?って思いませんか。だって、「何が嘘で何が本当なのか わからない」のは当人だし、「手を繋いでいる相手を 間違えてることに気付く」のも当人で、「不確かなこと」に惑わされているのも当人。そして、「信じてたものすべて 蜃気楼のように消えて」しまったのも、当人じゃないですか。遅すぎたのは誰?遅すぎたのは何?他への批判的な歌に聞こえるし、もしかしたらそういう意図で作ったのかもしれないけれど、実際の所その矛先はどこに向いているか、確実にそこだけに向いているのかって言うのは断定できないんじゃないでしょうか。とりあえず、私の中では「答えはひとつじゃない事に気づいた」というところで当人宛疑惑が生じているのですが、実際難しい所です。
そして、「行きはよいよい帰りは怖い」。以前もどこかで書きましたが、童謡「とおりゃんせ」の一節ですね。この曲では続きはありませんが、本家本元の「とおりゃんせ」では、このあと「こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ」が続きます。この意味は何でしょうね。ここで唐突ですが、「諦めない為に 眠っている振りをする」というフレーズが気になっていることを思い出します。「Too late!」なのに、寝てていいの?っていう。遅すぎても諦めない粘り強さはよろしいと思いますが、寝てたらもっと遅くなるじゃん!というね。それを思い出して、怖いのに「とおりゃんせ」っていう状態と、急いでいるのに「眠っているふりをする」のと、何となく似ているなと思ったんですよ。矛盾、とは少し違うかな、一種の認知的不協和というか。(認知的不協和とは、心理学の用語の一つです。フェスティンガーという人が言った言葉で、認知を構成する要素同士で不協和が生じること。よく使われる例として喫煙家が「喫煙は身体に悪い」という知識を得た時に生じる、というのがあります。「タバコは身体に悪い」という認知と、「自分はタバコを吸っている」という認知は対立しますが、こういうときに発生する「バツの悪さ」のようなものです)。しかもこれを解消するためと思しき言葉が後に用意されています。「「遠回りをして始めて 気付いたこと確かにある」よかったねテッちゃん!(笑)
まぁ、どっちが先かはわかりません。結果を目指していたのか、結果と転じたのか、「結果的に」という言葉をくっつけられるのは当人だけですから。とりあえず、「そんな風に思えるなら 最後に笑えばいいのさ」と言えている辺りでは本人としてもどっちでもいいのかもしれない。「オワリヨケレバスベテヨシ」というかね。否定したり肯定したり、本当に様々な対極を行ったり来たりしている哲学ソング、もといテツ学ソング。こんだけ書いても、「これ「だけ」」でしかないですよ。まさに終わりがない、「疑うことより 信じる方が楽なだけ」(笑)。




はい、おしまい。そういえば、こんな最後になっちゃって申し訳ないのですが、このSNプチ感想についてアオヒさんに(サイトで)ご紹介にあずかりました、ありがたい話でございます。RSSの具合が悪い?みたいだから、誰にも気付かれない所でわめいているような気になっていましたが、もし拾い上げて頂いた先からお越しになった方がいらっしゃるのなら、あまり失望させないよう出来る限りの努力をいたします(笑)小人精進!