ある程度改変・追記致しました。

ぐっどしゃーろっとな記事も追加いたしましたよ。←今じゃないけど
ついでにばっはです。ただあの辺はもうちょっと書き直さないと、マトモな言葉じゃないから…。

そして今日は思うこと。自分自身を少し振り返って、何かまぁ、どうでもいい感じなんですが、ちょっと書きたいなと思いまして。ただ、少し話が暗い感じになってしまうので、しかもきっとウットイくらいに長いので、苦手な方は気をつけてください。ジョージのジョージなりの夢と野望です(笑)







現在、まだ体調は万全といったかんじではありません。
もうこれは…春先にからだを壊した、としか考えられないですね。優しい方々から、「からだを壊したら駄目だよ」「からだは資本だよ」と、これもまたあたたかい言葉を受けていて身に余る想いなのですが、実際もうすでに壊れているのかもしれない。いや、そんな酷い破損じゃないだろうから、ちょっと養生すれば多分治ると思いたいんですが。今の状況のままでは、何度でも胃を壊すだろうし、何度でも風邪を引くだろうし、もしかしたらもっと酷いことになってしまうかもしれないなぁと漠然と思ったりします。もっと、摂生しなきゃいけないと思います。思うだけじゃなくて、しなくちゃ…と、思います。
…と、こんな世間話、本当は世間話でもないんですが…から入りますが。私は、現在大学で心理学を学んでいます。学ぶ…といえるほど、きちんと勉強できているのかどうかは甚だ不安、というかおもいっきし否、であろうと思っちゃうところなんですが(ソコ反省ね)、とりあえず…心理学科、という場所に二年いて、来年から三年目を始めることになります(順調に行けばね…)。
自分は心理学科生だ、というと、よく返ってくる反応が「心理テストして!」なんですが、実際皆さんがイメージしているものは、含みはしますが全てではありません。そして、言葉の解釈も大分変わってきます。「心理テスト」は、よくある雑学本(私は結構こういうの好きなんですが)にあるようなものや、テレビ、雑誌でやるようなものだけではなく、「心理検査」と呼ばれる査定の一つであり、それは一般に知られる性格診断のみならず、知能検査をも含みます(査定が好きじゃない(苦手)学生にとっては死の呪文でしょうね、心理検査法とか)。
この心理テスト、心理検査…皆さんがよく連想するのは質問紙と呼ばれる、紙にあらかじめ質問が書いてあるor自分で自由に記述する、などのものなのでしょうが、これについて厳密に、なるべく現実に近い形(完全な心理検査はありませんから)にするためにはものっ凄い時間と労力がかかるんですよ。様々な統計的処理などによって、質問項目を精選し、信頼性や妥当性について検討し…とかって。特に自由記述なんかになるとその解釈にはとても慎重になりますし(とかいって、まだ二年生なので検査法はまだサワリしかやってません)。…という訳で、そういったお願いが入ったときには何も言わずに統計の教科書を渡すか、静かにため息をつき「私、駄目人間やから…」というか、どちらかの対応をしています(笑)
そして、もう一つ、よく返ってくる反応があります。「カウンセラーになるの?すごいね、私は人のことまでみきれないよ」。これには、最近は苦笑して流せるようになったものの、まだ少し、思うところがあるんですね。固定的な前半の言葉ではなく、後半の言葉に。
実際、「心理学」を勉強して、その一角で臨床も概論的に触り始めて、カウンセリングというのは、それが全てとは言わずとも、やはり「知識」というものが必要なんじゃないかなと思うようになっています。カウンセリング、と一口にくくると少し語弊が出てくるかもしれないんですが…相談業務、とでも言いましょうか。友人の話を聞く、これに心理学的知識をはさまなければならないとは思いません。ただ、その友達の話って言うのを、根気強くずっとずっと聞き続けられる人ばかりではないと思うんですよ。最近よく聞く「うつ病」などは、投薬療法が基本とは言っても、カウンセリング的な活動に関しては大分腰をすえてやらなければならないことが多いです。だから、そういったケースのためにも、あるいは普段からの予防などに、専門的なアプローチが出来る人というのは必要だと思っています。
だから、まぁまだ卵にもなってないただの「志望者(志望だけなら誰でも出来る)」であるから、自画自賛にもならず言えるんですが、実際カウンセリングを仕事として行っている人は凄いと思います。いえ、真剣に仕事をしている人全てすばらしいですよ、ただ赴く分野に関して言えば、ということで。
では後半の何が思うところあり、なのかと言うと。カウンセラーになる人、カウンセラーである人、っていうのが、実際「心の強い人」であるという意識に対してなのです。
いえ、実際に、教授陣や様々な本も、そのようなことは言っていますし、そりゃカウンセラーがガタガタな心理状態だったら仕事にならないとは思うんです。そうじゃなくて、高みを目指すことは大切で、そうあらねばならないのだけれど、では設けられたラインから下のままでは決して人の心を支えることは出来ないのか?という気持ちなのです。
人の心を支える…は大言ですね。あと、カウンセラーの定義が職業より対人的な意味を増してきているんですが…話を進めるとして。
一番最初の世間話、さかのぼって。実は、春先にからだを壊した…という時期を今振り返れば、もしかしたら私は欝だったのかもしれないなぁと思うことがあります。もし、そこまでいかなかったとしても、重度の抑うつ状態であったとは思います(よく間違えがちですが、「うつ病」と「抑うつ」は違います。前者は病気で、後者は症状。同じようでも、ちょっと違いまして、抑うつ状態は症状の程度に差はあれど、誰でも味わうものです。あー気が重い、とかです)。以下、そういう話が嫌いな人は気を付けてください。

今からはあまり自分でも理解できないんですが、とにかく毎日、自分を否定して否定してやみませんでした。以前どこかの記事で書いたC論が猛威を振るっていまして、何をしても自分の声が自分自身を罵倒して、認められることは何一つなく。ただ、これよりもまた数年か前に似たような状態に陥り、その時はなりふり構わず欝ってたんですが、そのことを後に思い返して嫌だなぁと思ったことをC論が引きずっていたのかは不明なのですが、とにかく誰にも相談できませんでした。体調の不調は訴えても、何をどう思っているか、は言わず。言うと迷惑がかかると思いまして(というか、電話やメールで相談しようと、思っただけでもC論から散々ボロクソに言われました/何度も言いますが二重人格とかじゃないです)。
自分の価値がとにかく認められず、そして価値のないものを認められず、毎日死にたいとしか考えていませんでした。所謂自殺企図があったんですね。これは数年前の時にもあったんですが、春の時は実際に遺書まで書く始末。ハサミで腕を切ってみたところで(カッターとかじゃなくて、力を入れて、憎しみを込めて切れるものがよかったので)その苦しみがなくなるわけでもなく。そんな時にも、話しかけられれば笑って答えたし、腕の傷は事故だと笑いました。遺書をカバンに入れ、首をくくるためのベルトを握って裏の山を歩いた時にも、何気なく行ってきます、と言った気がします。
そして、そういった状態にあった時、スケジュール的には大分悲惨でした。ただでさえ忙しいところに、もっと仕事を詰め込んでました。今思えば、そういった時間の余裕のなさも、精神的に悪影響を与えていたのでしょうが、そしてそれを私は理解していたのでしょうが、その時の私の頭には「休む」などといった言葉はなく、ただ「倒れたら、やめてもいい。でも、病院に通うようなことになったら、お金がもったいないから、死ねばいいだろう」とだけ考えていました。自分虐めでしたね、生ぬるいですけれども。
一週間の合計睡眠時間は20時間を切り(不眠症状が出ていたのもあります/葉の擦れる音でも眠れなかった)、働く時間は30時間超、学校時間は40時間超。残りの時間は課題をしたり、友人から相談を受けたり(んなことしてる場合じゃねーだろと今なら思います)、移動をしていたり、詩を書いたり、海を見に行ったり(何度か入ろうかと思った)。そして、基本一日一食でした。胃を痛めていたのと、食欲が全くなかったのとが重なり、本当は絶食したかったのですが、食べないと働けないんですよコレが。あと、薬を飲んでいたので、何か一応入れないともっと胃が痛くなるので。毎回食後にすさまじい吐き気に襲われていました。
そんなこんなな、すさまじく荒れた生活をしていたんですが、本当にサヨナラしてしまおうと黙って山に登り、首を吊ろうとした時に、ためらいを感じてしまったんですね。つまり本気じゃなかったわけです。山に社があるんですが、その梁に輪をかけて、飛び降りようとしても、「怖い!」と痛烈に感じたわけではないんですが、飛び降りることが出来ない。結局二時間粘って、無理そうだなと諦めた瞬間があって、そのまま家に帰りました。
その後、死ぬことも出来ないなんて本当に駄目人間だ、もうどうしようもない…と、まさに死した精神状態で横になっていたのですが、どこかでパキッと音がした瞬間に、おきあがることができまして。その時、何故かものすごく軽やかな気持ちになって、しばらく踊っていたような気がします。…この辺は、寧ろ本当に病気なのかもとか今思って恐ろしいんですが、今はおいておくとしますね。

それで、こんだけ不幸自慢(不幸って言うか馬鹿自慢)して結局何が言いたいかというと。ようは、「こんなに弱い私でも、元気になれる時がある。誰にも、辛い時があれば、楽しい時がある。そんな時に、皆が少しでも余裕があるときに、皆が気楽に人のことを気にして、一緒に元気になることが出来る、そういうことが本当に出来るんだということを、体現したい」んですね。カウンセリングを相談業務、職業として存在させることも大事なんですが、普段生活している何気ない人々が、何気ない環境が、小さな「トキタマカウンセラー」にでもなれたら、思いとどまりもせずに箱になってしまう人は絶対に減るんです。
現在、特に我が国では、カウンセリング業務の敷居が高すぎて、カウンセリングそのものまでも遠くに感じている。悩める人は心療内科へ、それも確かに正しい。でも、そうやって一箇所に集めてしまうだけじゃなくて、自助と他助の力を育ててより生きやすい社会は形成できないものか。そういったことを、ミクロながら、発信していけたら。そう思うわけです。
上の、「人の面倒みきれない」というのは、カウンセリングを「面倒をみる」ことだと考えているから思ってしまうこと。カウンセリングは、行う人どちらもが共に歩いていくものです。辛い時は、無理はしなくていいから、せめて自分が楽しい時に、自分が嬉しい時に、そうやって一緒に歩いていくことを、一人一人が出来たら。そう思うわけです。


今日はなるべく、少しは人に伝える努力を、を一行一行の度に考えながら打ったんですが…どうでしょう、分かるかなぁ。寧ろ分かったら、「何を程度の低いことを」と思われてしまうかもしれないけれど(苦笑)、こんな大きな夢を、小さいながら「持つだけタダだろ!」と思い描いているのです、ということを。どこにも吐き出し口がなかったので(何だかオフでは気恥ずかしいし、サイトでは言いづらい)ここで。ふー!疲れた!