忙しいようなそうでもないような、でも忙しいんだろうな。


ただ時間を作るのがうまくないのと、少し憂鬱な気持ちなだけだからかもしれないなぁ。
というか…憂鬱、でもない。感傷的。色々、立ち向かうと難しいものがあって。
今日は少し、いつもを上回り読みづらく、しかも少し薄暗いのでご注意。別に沈んでいるわけじゃないんですが、静かな時間に耳を澄ますより沈黙の音を聞いてしまうような感じです。




正しいことって、とても綺麗で、すばらしく便利なんだけど、そしてそうあるのがよいのだろうけれど、提示されると思わず目を背けてしまうくらい厳しいものに感じてしまいます。むしろ、厳しいことと感じるのがすでに小人であることをあらわしているんでしょうが、開き直らずしかし自分を完全否定しないようにすると、とにかく何だか…悲しい、というか、何とも言えないというか。
上記の気持ちはとても矮小なものだし、作中での意味合いからすでに違うから、ここで引っ張ってくるのはある意味とても抵抗があるのだけれど、言葉の意味だけを滑らせてとらえたことを前置いて…今頭の中で回り続けている言葉。

 「けれど ジャックと話していると 悲しくなってしまうんだ 
  何か… とても 悲しくなってしまうんだ」
           「はみだしっ子」文庫版第6巻:グレアム 三原順

…ファンの方石投げないで(苦笑)!すいません冒涜に近いかも私などが…(汗)。
私の場合は…自らが自らの内で処理した後に肯定された正論、がジャックの部分に該当するんですけれども。とにかく、「悲しくなってしまう」としか言いようがない。
思う方向に傾くには、今はとてもその対極に傾いていて、そして傾いた先で息をすることがとてもつらいような、そんな感じ。どうしても逆に傾かせたいのに、よりいっそう思わない方向に傾くわけではなく、ただひたすら膠着状態が続くような、でもそれは傾けない方向に重力がないからでも重心がないからでもなくて、以前のヘタに思わない方向へ向けてしまった時と比べて自分の中に力がなくてそれを取り戻すことができないというだけで。
これまた意味は異なるので上と同じ扱いなのですが、恐れ多くももうひとつ、この傾かない「とあるもの」に関して、同氏の同作品、私が一番好きだったキャラクターの言葉が頭をゴンゴンと。

 「ママはどうして自分を可哀相なままにしておくの?
  ただのひと言も試さずに」
           「はみだしっ子」文庫版第1巻:サーニン 三原順

サーニンの言葉を否定するわけでもなんでもないことは先に弁明しておくとして(苦笑)、ただこの言葉は、痛烈に胸に刺さるのと共に、疑問を投げかけるとき、その純粋性が、何らかの結果に至るまでの心的過程に及ぼす影響は、その疑問の正当性如何に必ずしも関わらないんじゃないかなという、一種の気付きのようなものを与えてくれたので。
でも、気づいたはずなのに、この言葉が離れない。非常に純粋なこの質問を心の中で私は繰り返さざるを得ない。それは、色々なものに対して(人間の内面に限りますけど)。
なんで?なんで?どうして? …って、聞いた先にあるものが、答以外にも見えているなら、そしてそれをする人が聡明であればあるほど…質問の答は、きっと出てこない。

そういったことを考えていると、今日最初に紹介したグレアムの台詞が出てくる、というわけなんです(苦笑)。
正論っていうのは、言い換えれば自分の中で自分を監視しているもう一人の自分(医学的な解離じゃないですよ)で。監視している自分は他でもない自分だけど、監視しているという立場上正しい姿勢を持つようになるのだけど、結局はやはり自分なので、自分の中で処理された社会による正しさが基盤になるという。


…メランコリスト(苦笑)秋は涼しいから、わいてた頭がさめて来ますね……ハァ。




補足:「はみだしっ子」とは、白泉社の漫画家・三原順さん(残念ながら1995年にお亡くなりになっています)が、1975〜1981年にわたって同社の雑誌・花とゆめで連載されていた漫画です。
色んな事情で親元を離れた少年4人(グレアム、アンジー、サーニン、マックス)が一緒に放浪生活を送る…という話なのですが、まぁ画面ビッシリのネーム、独特の言い回し等が読んでて非常に頭を使う(私のような教養のない者は特に/苦笑)結構濃い作品です。
絵柄・作風(初見ではこの話はとても胸に刺さって痛くて読み返せなかったのです、今は何度も読み返してますが)は好みの問題かと思われますが、興味がおありでしたら一読されることをお勧めします(私は最初からは意味がつかみづらい箇所があったので何度も読みましたが/笑)。
ちなみに私は白泉社文庫で1〜6まで出ているのをもっています。花とゆめコミックスだと、見つけるのが結構つらいかもしれません(笑)