メランコリスト・続き(笑)

あれー、「ちょっとした更新」ワザを使えば最新記事一覧には出ないかなと思ったんですが、そうでもないみたいですね。マトモ(に見える)虹さん関連以外はその小技を使っていたのですが…しかして恐れ多い遭遇もあり。

先日のメランコリストな(苦笑)記事に、L-Noteさんから、恐れ多くもトラックバックをいただきました(諸事情により少し違って見えていますが、今日の記事をトラックバックさせていただいておくことで代わりとさせていただきます)。管理人の水城さんが、エッセイ中のケンちゃんの分析の際に「唯幻論」という理論を紹介されているのです(私ははじめて聞きました/無教養…)が、その考え方を、メランコリスト脱出に(笑)加えてみてはどうだろうか、というありがたいお言葉を、トラックバックの際にいただきまして(詳細は十人九色11/15日のコメント欄を参照)、しかし私はそれをとても困難に感じているのです…ということを、今日は書きたいと思います(ああ、出だしでコケた感がビシビシ/泣)。



ではまず、「私は何を「悲しい」といったのか」に関して。
「唯幻論」について(「唯幻論」そのもののしっかりとした説明をお求めの方はL-Noteさんへ!/笑)、私が解釈していることを簡単に触れますなら、自分が考える「常識」は他人にとって「常識」じゃないこともありうるのは当たり前で、いる人の数だけさまざまな「常識」があるけれど、じゃぁその「常識」って何?「常識」っていっても常識じゃないじゃないか、という話に対して、『その集団内で「常識」だと思われているものは、ただ同じ意識を持つ集団内で多数決勝利しただけで、「常識」なんてものはホントはなくて、結局は個々の意識、幻想に過ぎないんですよ』と返すようなもの(世の中はいろんな人がいていろんな考え方があってどれが正解どれが真実ってコトは無いんですよ)かと(ああ、違ったら物凄い恥ずかしい…読解力の無さもそれを曝け出したってことも/前から/諦観…)。
そこから、生き方に対してのヒントを引っ張るとしたら(これも私が解釈していることに過ぎませんよ)、結局は世の常識に適合するも適合できないも幻想というしがらみにとらわれているだけだから、自分の意識が世と逆行している時には、自分の中でリスクを負うことを前提にするなら、無闇に他に合わせずともいい、自分の中でうまいように酌量すればいいということなんじゃないかと(言葉が足りなかったりそもそも解釈が違ったりしたら本当にすいません)。

で。15日で私は下のようにコメントを返しています。

きっと私がこう鬱陶しく(笑)考え込むことをやめさせる…というか、事態を好転させるというか、人生を調整していくにあたってはとても納得のいくものであるのだけれど、私自身の手が短く(それは故意にしてもそうでないにしても)て、届かない場所にあるんだなぁと思った、というか。(長々分かりづらく書いてしまってすいません、端的にいうと、「理論はとてもタメになるし、そう考えられたら楽なんだろうけれど、私自身の人間性がそれをあえて利用しないよう選択している、あるいは利用したいけれど利用できないという卑小なものであるから、とても遠くにある綺麗なものを見たときの、それを手に入れることのできない悲しさのようなものを感じた、ということです)

なんていうのか…論理的な文章構成ができなくて本当口惜しいんですけれども(汗)、私は自分の感情に近しい考え方(以下A論)が、他一般で正しいとされている常識とズレていることそのものが「悲しい」と思っているのではなくて…寧ろ、その他一般で正しいとされている常識(以下B論)が自分の中にもあって、それと同時に「自分の中で解釈している」他一般で正しいとされている常識(以下C論)もあって、その三つが微妙な具合でかみ合わないことが悲しいと感じているのです。
15日に、私は「自分を監視しているもう一人の自分」という表現を使いましたが、これがC論にあたります。私の中ではこの「もう一人の自分」がとてつもなく絶大な権力を持っていて、頻繁に叱咤(激励はない)してきます。この叱咤の頻度、基準は結構日、気分によってまちまちなのですが、故に、私の思考は基本的に自己中心的になっています。
それを踏まえた上でたとえれば…希少(と自分で言ってしまうとあれですが)ながら存在する、私の「嫌いな人」というものにたいして、「嫌い嫌い嫌い!」とだけわめくのがA論。「彼(彼女)のとった●●という行動を私は不快に思った」と、思うことを許可するのがC論。不快に思うって言うのは自分の中での勝手な感情なんじゃないの、というB論(ようやくB出現!)を指摘するのがC論で、「つまり自分に「された」と優越的に批判するだけの資格があるとは思えない」と片付けるのがC論。よって許可がおりることは結構少ないのです。
とにかく、すべてC論の許可を得ないといけない。そして優先されるのはC論なので、上のように許可が下りない場合もありうるわけで。AとCは同じく自分の中でのもので、Cが絶対的に強いから、AはCに文句を言ってやりたいのだけれど、CはAをもどこかでどれだけかは分からずとも内包しているために、Aの鬱屈とした精神はどこへ吐き出せばいいか分からないわけです。
しかし、これだけではなく。ズレが発生するのは、どちらかといえば上記の能動的事象に関する思考と、下記の所動的な事象に関する思考との間でです。
上の出来事を逆でたとえ、結構世の中に存在するんじゃないかなぁな(苦笑)「私のことを嫌いな人」から例に出すと、「嫌われちゃった…」と嘆くのがA論、悲しいと思うことを許可するがC論。嫌うからには嫌うだけの事情があるだろう、というB論を指摘するのがC論で、「つまり自分が嫌われるようなことをしたからだろう」と片付けるのがC論。よって許可がおりることは結構少ない。
…あれ?と思うじゃないですか(苦笑)「嫌う」際のC論と「嫌われた」際のC論は見事に違う。Aはまたも文句を言ってやりたいのですが、しかしどちらに登場したBもB故に正しいし、Bを持ち出してきたCの意見は聞き入れるしかない。なぜか、AもBを用いるからです。AはA故に勝手に意見を撒き散らせばいいのに、何故かBの信奉者となっています。ここが「悲しい」と思う一番の理由かもしれません。C論は世の中で星の数ほどあるB論で、一番Aを否定するに足る材料となるものを選んでAに提示してくるからです。
先日紹介したグレアムの言葉を改変するなら、「C論と話していると悲しくなってしまう」と言っているのがA論、でしょうか。AはBがとても好きなのだけど、Cと話していると、Cの向こうにあるAを否定するBが窺えてしまうからです。


さてまたここで、では何故「スライドが困難であるのか」の理由について。
一番簡単に示している理由は、上で書いている「AはCに文句を言ってやりたいのだけれど、CはAをもどこかでどれだけかは分からずとも内包している」で。「唯幻論」から引っ張ってこれる私なりの解釈では、A論とB論の酌量を上手いことしよう、なのですが、ここではB論は直接存在せず、似たような存在としてC論があるため、A論のC論の酌量にせざるを得ない。しかし、Cは所詮Bではなく、また実はAも含んでいるため、どのように酌量すればいいのかがまったく分からない。否定否定打消し打消しの連続で、文章ですらわけ分からない状態になっていますが、自分の足りない脳内では完全に飽和状態。つまりAは常に飽和状態で、Cは常にAを上手く丸め込んでいる…という。
何故CはAを丸め込まなければならないかといえば、思考はCが優勢としても結局行動するのは自分自身、つまりAなのです。ということは、もしかしたらCが否定しているのは、Aを誘導しているC自身なのかもしれないのですが、思考停止しかけているAにはそれがわからない、というわけなのです(他人事みたいに語ってますが…)

……何だか、とても取り留めなくなってしまったような…何度か書き直してはいるんですが、上手いこといかない(汗)他の補足的なことに関して後日また書くかもしれませんが、読んでみて「意味わかんないよ」「これはちょっと…」がおありでしたらどなたでもご指摘くださるとうれしいです(汗)