被害者の被害

単純に言って、ひっでぇことするなぁという気持ち。
福岡いじめ自殺:「あいつが死んでせいせいした」



人間は多数で少数をつつきまわすことに快感を覚えることがあるようです。
イジり、だったり、イジメ、だったり、形態は様々ですが、その根拠は結構単純なようです。「標的」より優勢にあるという立場を強く認識できることと、その立場を手にしている自分は少なくとも「標的」よりは社会から容認されているのだという帰属感と、単なる嗜虐心と。
さて、あんまり認めたくないですが、そういったことに少なからず喜びを感じる我々が、何故にして「被害者」という名前を見ると二の足を踏んでしまうのでしょうか。上の事件にしても、「先生が悪い」「日々のストレス」「教育システムからの重圧」「社会のゆがみ」などと、色々理由をつけられながら、「加害者」はうまく「被害者」に摩り替わります。そして、この「被害者」という肩書きは、超絶特権を持ち得ることがあります。何らかの「被害」にさえあっていれば、どんな責任もあやふやになってくれるからです。
上の例でも、どんどんどんどん責任は分散し、曖昧になっていきます。どうしても一本の糸の先しか見えない我々としては、行き着くところが真犯人であると思ってしまいます。でも、イトの先はとても遠く、深く、あまりに漠然としていて、結局「底には、ソコには何か悪いものがある」と言うことに落ち着き、忘れてしまいます。日常でもこういったことは多いです、「大人が悪い、政治家が悪い、国が悪い、社会が悪い…」などなど。
しかし、確かに責任は分散するものですが、分散と言うのはあくまで「分かれ散ること」であり、最後の一片を担った者にその全てが集約されるわけではありません。関わった者全てが責任者なのです。たとえ「先生がいじめてたから」といって、たとえ「受験などの勉強でストレスがたまっていたから」といって、たとえ「親の教育が悪く情操発達が遅れていたから」といって。
「被害者」だから、少しでも「被害者」だから、何をしても許されていれば、結局「被害者」の責任は誰が、何が取って、いつになったら「被害」がなくなるのかが、わからない。生徒が荒れて、その被害で窓が割れる。その生徒の責任を追及しようと思えば、待ったの声が入る。「教育の仕組みが悪くて、その被害から生徒が荒れる。」。ここで生徒の責任を追及しないなら、少しでも被害にあったものの責任を追及しないなら、次は「政治の仕組みが悪くて、その被害から教育がねじれる」「社会が悪くて、その被害から政治が歪む」などとなります。じゃぁ「社会」ってヤツを直したら、それだけで窓は割れなくなるか。社会ってヤツから、窓の修理代を貰うのか。そんなことはできないし、「社会」を直すには政治を、「政治」を直すには人を、「人」を治すには教育を、「教育」を直すには…と、今度は逆のヤジルシが発生する。でもそのヤジルシが行き着く先は「被害者」で、それは全ての人に行き着くようになる(環境問題とかと同じ類)。すると、結局は疚しさから誰も発言できなくなる。結果として、全て社会を作るのは人だけれど、人を変えずに社会を変えようなんて言うわけのわからない不可能な理想を皆が漠然と抱くようになる。責任の双方向性が失われて、誰も責任をとらない、とることのない「社会」になる。そしてその社会は、次なる「被害者」を生み出す。…被害者の加害、被害者からの被害。被害の連鎖。ヒガイヒガイ。

…自分自身にも本来当てはまるので、棚上げしているような言には非常に疚しさを覚えます。簡潔に言えば、全ての事象は他人事ではないと言うことです。「無関心」であることが一番悪い、と言うのは、「誰にも迷惑かけてないじゃん」と言うことを最上の善行であるとするなら最も迷惑をかけるのは「無関心」であることだからです。
こんな記事もありますが、中国の軍拡を許しているのは世界の無関心です。そしてその被害は着実に広がっています。確かに国内でも人権弾圧は起きているようです。しかし中共がなくなれば全て事は丸く収まるでしょうか。恐らくそうではないでしょう。中の人々と、そして外の人々の意識が変わらない限り、いくら単方向で責任を取らせても、同じことの繰り返しなのです。被害への無関心が、その被害からの次の被害を許すのです。

私ももう成人していて、「よくわかんない」の一言で済ますことは許されない「責任」があると思います。まずは「知ろう」と関心を持ち、そして「知り」、「考え」、「行動」すること。一人が生きてできることなどタカがしれていますが、これこそ全ての人が、自らの行動に「関心を持って」行えば、世の中は必ず変わる筈なのですから。

…久しぶりに思うことを書こうとしたら、うまくまとまらなかったのですが。上の記事があまりにも腹立たしく、悲しく、情けなかったのでつい。悪文失礼致しました。